わんからっとL 65号
─お直しはお父様が始められたのですね。 ●─昭和39年に父が創業しました。お直し専門の会社を始めたのは、父は機械を扱うのが上手で、母には洋裁の修業経験があったからです。当時、お直しは縫製工場か注文服だけでは食べられない仕立て屋の仕事でした。そのうちお誘いがあって長崎屋に出店しました。小学校時代から配達など父の手伝いはしていましたが、後を継がず、大学を出ると保険会社へ入りました。 ─どんなきっかけでお直しの世界に入られたのですか。 ●─仕事の面白さは感じませんでしたが、保険会社ではいい先輩との出会いがありました。自分は独立心旺盛で野望が強かったのですが、「それならこの会社にいてもダメだ。実践を積んだほうがいい」とアドバイスしてくれました。そしてある時、年老いた私の父を見て「やめて手伝えよ」と言ったんです。それまで父の後を継ごうと思ったことは一度もなかったのですが、「そうか、その選択肢もあるんだ」と心にしみました。9ヶ月ほどで会社をやめて、父のお直しの仕事に本腰を入れ始めました。
─その頃はどんな状況だったのですか。 ●─取引先を開拓しようと仙台市を中心に営業をしていました。当時はライバル会社もなく、お直しは営業するほど確立された分野ではなかったんです。実感したのは、お直しは不満が多い業種であること、業種そのものにお客様が魅力を感じていないということです。できれば直したくないが、しかたなく直す、という消極的な頼み事。逆に可能性があったし、営業は面白かったですよ。平成4年の有限会社化に伴い、23歳で正式に入社しました。平成5年には守井加工所から株式会社ビック・ママに変わり、父は社長から会長になりました。「いろいろな仕事を生み出す母親のような会社になろう」という意味を込めて「ビック・ママ」と名づけたんです。
─順風満帆とは行かず、大変なご苦労もあったとか。 ●─夢と現実にはギャップがあって、ずっともうかりませんでした。事業の方向性が定まらないうちに、平成12年、債務超過に陥りました。まわりの態度が一変し、銀行からは「もう貸せない」、人からは「つぶれる」と言われる。大赤字という現実をはじめて目の当たりにして、経営の改革を迫られました。それまで4割もあった下請けの仕事を切り、経営責任のあった人にやめてもらい、お客様と直に接する小規模な店を始めました。 ─141ビルの地下に出店されたのですね。 ●─仙台141(現 仙台三越)店を開いたことは、大きな転機でしたね。お客様が気軽に相談できるよう、すぐに声をかけられるカウンター形式を採用し、作業風景をあえて見せて安心感を持っていただけるようにしました。たまたま「神様から愛された」のでしょう。直したい、困っている、というお客様が大勢きました。この成功が突破口となり、ここ10年ほどでシステム化ができて各地に店舗を広げ、現在は46店舗。立地条件がいいこともうちの付加価値です。
─女性が一生働ける職場を目指しているそうですが、どんなことを心がけていらっしゃいますか。 ●─男性は、20年後のために、日本のために、とか、大きなことのために小さなことは我慢できます。それに対して女性は毎日が大事で、気づいたら20年経っていた、という時間の感覚で生きていると思います。うちの従業員のほとんどが女性です。だから毎日が快適に過ごせるよう、指示をしっかり出してあれこれ考える不安を取り除き、日々が積み重なっていくような職場環境づくりを大切にしています。 ─これからの展開をお聞かせください。 ●─衣類の買い取りサービスを開始したので、お直し、保管、買い取りの循環型サービスをますます充実させていきます。こうして培ったノウハウで海外進出をしたいですね。パリには、古い物を大事にし、お直しにもお金をかけるという文化があります。だから、60分ですそ上げをします、というような明確なコンセプトを持った店舗ならチャンスがあるのではないかと、心がときめくんですよ。「もったいない」の心を世界に広げたいと思います。