女性起業家を応援するヒューマンネットワーク新聞マガジン「わんからっとL」

わんからっとL 64号

2012/02


わんからっとLも今年で16周年、64号となりました。記念すべき今号の巻頭特集は、株式会社アオバヤ代表取締役会長の高橋努さん、さく子さんご夫妻をお迎えしてのスペシャル対談。
 明るくはつらつと、今も現役で活躍する努さん(85歳)、さく子さん(74歳)のお二人に、新春にふさわしい元気になるお話を聞かせていただきました。

●努会長─大正15年、宮城県登米郡宝江村に、5人兄弟の末っ子として生まれました。昭和20年5月、若干19歳で満州北方の輜重隊に繰り上げ入隊。同9月、シベリア抑留生活。その頃零下60度にもなる厳寒のコムスモリスク市の牛舎の収容所は、わずか2ケ月余りで3000人のうち1000人が回気熱という伝染病で亡くなっていきました。
 当時、満州で運送業に成功した48歳位の高橋さんという人と出会い、弟のようにかわいがってもらいました。「鉄道もいいけど、商売もおもしろい」と教えてもらったのが創業のきっかけになったんです。
 私が27歳の時、東京文京区に、宮城医療器株式会社を設立しました。
 昭和31年10月、30歳の時に東京・総武線小岩駅北口通りに『月賦のアオバヤ』を創業しました。間口3間弱、奥行7間、約20坪のお店です。取り扱い品は、紳士服、婦人服、寝具、靴など10ヶ月の分割払で販売。それが、今のアオバヤの原点です。

─さく子さんとはどこでお知り合いになられたのですか?

●努会長─創業時、男性3名、女性2名の従業員がいました。その中に、妻がおりました。アオバヤを開いた小岩駅北口は、南口に比べ人通りが少なく、また、店舗面積の広い競合店が次々と開店する中、苦しい経営を続けてまいりました。東京地区は競争が激しいので、月賦専門店がない故郷に近い郡山市、須賀川市へと進出。昭和35年、郡山市で結婚しました。

●さく子さん─私は茨城県の結城市の出身。会長のおばの勧めで月賦販売のお店を手伝ったのがきっかけでした。5年後に結婚しました。

─ダスキン社長鈴木清一氏との出会いが高橋会長の転機になったのですか。

●努会長─昭和40年2月、商業界のゼミナールに参加し、(箱根湯本温泉)当時ワックスメーカー「ケントウ」の社長の、鈴木清一さん(ダスキン創業者)と運命的な出会いがありました。
 その時声をかけて頂いた一言が『ダスキンという会社をやります。営業部長も連れてきたから、高橋さん話を聞いてもらえませんか?』でした。当時、営業部長の駒井茂春氏(元2代目ダスキン社長)と串岡氏(元ダスキン常務)の2人が出迎えてくれて…貸し雑巾(ダスキン事業)は世間に認知されていなかったので希望者が少なく、おかげで、4時間もマンツーマンで事業展開の詳細を聞くことができました。
『金の卵を見つけてきたぞ』と、社員の説得をしましたが、貸し雑巾ビジネスにピンと来る者は誰一人なく、15人の社員は、賛成しなかったですね。
 でも、この出来事が、本当に運命を左右する事だったのです。現在は、全国のダスキン加盟店は2500店ですが、一店主義で経営をしている加盟店さんが多い中、アオバヤは、岩手、山形、宮城、福島、栃木、東京と多店化を計って、他業種を含めて22店体制で運営しています。


●さく子さん─昭和47年に鈴木清一会長が自宅に来られました。当時、ダスキンは愛の店として業務用だけでなく家庭用を強化。家庭用をやるのは、奥さんという考え方だったと思うんですね。『奥さんなら、家庭用でもできるからぜひやって下さい』と言われました。
 それまでは、事務の仕事をしながら3人の子育て中でした。雑巾で商売になるわけがないと最初は思いましたが、主人がとても熱心に説得する姿勢を見るにつけ、『私が力にならなければ、いっしょになったのだから主人を支えていかなければ』と当時は必死でしたね。
 息子(現社長)が小学校4年生位になると勉強会にも積極的に出かけるようにしました。

─お子さんをおいて出張にいくのはつらくなかったですか?

●さく子さん─私は、仕事と思えばなんでもできました。自分も商売が好きだったんですね。月賦販売の時も、接客が好きでしたし、苦労を苦労と思わなかったです。いつも一生懸命、自分のできることはなんでもやってきました。

●努会長─商売が上手でしたね。やっぱり、私にとって最高の女房ですよ。

●さく子さん─結局、月賦時代の従業員15人の人たちがいましたし、ダスキンをはじめてから営業の重点を温泉旅館に集中させ郡山・宇都宮・仙台・盛岡を歩きました。こうして支店を作っていきました。

─ダスキンというブランドが家庭に普及しはじめて、一般的になった時に、加速的に伸びていきましたね。

●努会長─仙台も、私どもの会社が一番早いんです。
 日本が高度成長期に入り、生活スタイルが変化した時代で当時、ダスキンを使い始めると、やめられなくなる。濡れ雑巾で掃除する時代じゃなくなってきたわけです。昭和49年、49歳のとき全国加盟店の理事長に推薦されました。当時、盛岡市、山形市、仙台市、郡山市、宇都宮市、東京都葛飾区と加盟店展開をしておりました。
 時代に先がけてと思い、顧客管理にNECの当時でいうコンピュータを導入したのもこの時期です。
 ダスキンとのめぐり合いがなければ、今日はないのです。月賦では、時代的に遅かったと思います。創業のチャンスだったのです。事業は常に新しい仕事を育てることが大切だと思います。
 27歳で設立した宮城医療器もわずか1年で止めました。商売は永遠に栄えることはあり得ないと思っています。しかし、これも運がよかったのだと、今は感じています


●努会長─ダスキン5支店開設後の平成8年に社長を息子に譲りました。それから5年目に、新規事業を見つけてきました。それが、ポスティング事業だったのです。新規事業は育てるのが大変ですが、ようやくそちらの事業も黒字になりました。
 わたしは、10年おきくらいに新規事業に取り組んで来ましたが、二代目社長になってからは5年おきくらいに取り組んでいます。
 老人介護の事業として、ホームインステッド事業(介護保険適用外)にも取組んで5年余りになります。それから昨年8月に仙台市に介護保険適用の介護予防フィットネス・ジョイリハを第一号として開始しました。お風呂・お食事なしで3時間の健康運動専門のデイサービスです。ホームインステッド事業は、介護区分で言うと重症の方の介護。ジョイリハの事業は、介護区分で言うと軽症な方の介護予防の健康運動専門のデイサービスです。
 今後は保険適用の介護予防運動機能訓練がメインのジョイリハ事業に重点を入れていくと思います。


●さく子さん─お客様に喜んでいただけるものを、日々考えて作っています。60歳のときにパソコンを始めたんです。
 今は牛乳パックで手作りの和紙をすき、はがきを作っています。仏商事業では、そのはがきを使用しお客様にお礼状を出しています。しおりも作り、プレゼントをしています。お礼の気持ちを形にして、喜んでもらえるのがとても嬉しいですね。


―今後の展開、抱負などを聞かせて下さい。

●努会長─日本は、少子高齢化が進んでいます。この50年で寿命が20年近く延びています。厚生労働省も介護予防に力を入れて運動機能訓練をメインとするスポーツクラブ的な事業を支援しています。楽しく無理のないトレーニングが行えるジョイリハでは、スロートレーニングを導入。筋肉をつけるようゆっくりと運動動作をするトレーニングです。この運動の特徴は、負荷が軽くても運動する時間が短くても筋肉を効率よく作れる。高齢者の方々の生活が楽しくなり、やる気がアップするジョイリハを、アオバヤのネットワークがある地域へ開設して行きたいと思っております。

●さく子さん─「仕事をするには愛して厳という言葉があります」人間関係は愛情を持って仕事には厳しさを追求してという事です。この言葉は経営理念として、朝礼で唱和しています。アオバヤの社風になってほしいと念願しています。これからは、今までお世話になった方々へ恩返しをしながら、さらに頑張る事が出来たら幸せです。



本社:宮城県仙台市泉区泉ヶ丘3丁目19-5
TEL:022-372-6116 FAX:022-372-6103
http://www.aobaya.co.jp/


   

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継続は力なり
 季刊誌わんからっとLは、平成8年、宮城・仙台圏における女性起業家を応援する新聞マガジンとして生まれました。この間、女性の社会進出に向けて様々な情報提供やネットワークづくりを推進してきました。 取り上げた女性起業家は200人以上に上ります。パーティや交流会などでは6000名近い方々が、それぞれの情報交換の場としてご利用しています。
 創業当時、女性起業家インタビューに掲載させていただいた方を15年ぶりにまた、再登場していただき、さらに今年の抱負を伺いました。
 “継続は力なり”です。ひとつの仕事をずっと続けてこられたお話をご紹介します。
 企業なさりたい方、企業の継続に悩んでいらっしゃる経営者の方、そして自分の夢を実現したい若い世代の方たちにぜひ、読んでいただきたいです。
夢は、自分を信じて人一倍の努力を重ね、創意・工夫していけば、必ずや叶っていくように、人生の“シナリオ”は創られているのです。
編集長


わんからっとL編集長
小泉知加子