わんからっとLも今年で16周年、64号となりました。記念すべき今号の巻頭特集は、株式会社アオバヤ代表取締役会長の高橋努さん、さく子さんご夫妻をお迎えしてのスペシャル対談。
明るくはつらつと、今も現役で活躍する努さん(85歳)、さく子さん(74歳)のお二人に、新春にふさわしい元気になるお話を聞かせていただきました。
●努会長─大正15年、宮城県登米郡宝江村に、5人兄弟の末っ子として生まれました。昭和20年5月、若干19歳で満州北方の輜重隊に繰り上げ入隊。同9月、シベリア抑留生活。その頃零下60度にもなる厳寒のコムスモリスク市の牛舎の収容所は、わずか2ケ月余りで3000人のうち1000人が回気熱という伝染病で亡くなっていきました。
─さく子さんとはどこでお知り合いになられたのですか?
●努会長─創業時、男性3名、女性2名の従業員がいました。その中に、妻がおりました。アオバヤを開いた小岩駅北口は、南口に比べ人通りが少なく、また、店舗面積の広い競合店が次々と開店する中、苦しい経営を続けてまいりました。東京地区は競争が激しいので、月賦専門店がない故郷に近い郡山市、須賀川市へと進出。昭和35年、郡山市で結婚しました。
●さく子さん─私は茨城県の結城市の出身。会長のおばの勧めで月賦販売のお店を手伝ったのがきっかけでした。5年後に結婚しました。
─ダスキン社長鈴木清一氏との出会いが高橋会長の転機になったのですか。
●努会長─昭和40年2月、商業界のゼミナールに参加し、(箱根湯本温泉)当時ワックスメーカー「ケントウ」の社長の、鈴木清一さん(ダスキン創業者)と運命的な出会いがありました。
●さく子さん─昭和47年に鈴木清一会長が自宅に来られました。当時、ダスキンは愛の店として業務用だけでなく家庭用を強化。家庭用をやるのは、奥さんという考え方だったと思うんですね。『奥さんなら、家庭用でもできるからぜひやって下さい』と言われました。
─お子さんをおいて出張にいくのはつらくなかったですか?
●さく子さん─私は、仕事と思えばなんでもできました。自分も商売が好きだったんですね。月賦販売の時も、接客が好きでしたし、苦労を苦労と思わなかったです。いつも一生懸命、自分のできることはなんでもやってきました。
●努会長─商売が上手でしたね。やっぱり、私にとって最高の女房ですよ。
●さく子さん─結局、月賦時代の従業員15人の人たちがいましたし、ダスキンをはじめてから営業の重点を温泉旅館に集中させ郡山・宇都宮・仙台・盛岡を歩きました。こうして支店を作っていきました。
─ダスキンというブランドが家庭に普及しはじめて、一般的になった時に、加速的に伸びていきましたね。
●努会長─仙台も、私どもの会社が一番早いんです。
●努会長─ダスキン5支店開設後の平成8年に社長を息子に譲りました。それから5年目に、新規事業を見つけてきました。それが、ポスティング事業だったのです。新規事業は育てるのが大変ですが、ようやくそちらの事業も黒字になりました。
●さく子さん─お客様に喜んでいただけるものを、日々考えて作っています。60歳のときにパソコンを始めたんです。
―今後の展開、抱負などを聞かせて下さい。
●努会長─日本は、少子高齢化が進んでいます。この50年で寿命が20年近く延びています。厚生労働省も介護予防に力を入れて運動機能訓練をメインとするスポーツクラブ的な事業を支援しています。楽しく無理のないトレーニングが行えるジョイリハでは、スロートレーニングを導入。筋肉をつけるようゆっくりと運動動作をするトレーニングです。この運動の特徴は、負荷が軽くても運動する時間が短くても筋肉を効率よく作れる。高齢者の方々の生活が楽しくなり、やる気がアップするジョイリハを、アオバヤのネットワークがある地域へ開設して行きたいと思っております。
●さく子さん─「仕事をするには愛して厳という言葉があります」人間関係は愛情を持って仕事には厳しさを追求してという事です。この言葉は経営理念として、朝礼で唱和しています。アオバヤの社風になってほしいと念願しています。これからは、今までお世話になった方々へ恩返しをしながら、さらに頑張る事が出来たら幸せです。
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