女性起業家を応援するヒューマンネットワーク新聞マガジン「わんからっとL」

わんからっとL 62号

2011/08

老舗企業夫婦二人三脚 力を合わせて創業─地域に根づいた「灯ともしび」として

1台のオート三輪からスタート

―敬一さんは登米の農家のご出身と伺いましたが。

敬一―9人兄弟の4番目で、長男です。17歳の頃、母にオート三輪を買ってもらい、ほかの農家から頼まれて稲運びを手伝ったりしていました。当時は車が珍しい時代でしたから非常に重宝されまして、あちこちから依頼を受けました。今思うと、それが現在の事業の原点となっています。

京子―まだ道路も整備されていない時代でしたが、運送の仕事はたくさんありました。稲運びのほかにも、農家の人が集めた薪すみを佐沼、仙台まで持っていって販売したり、富山から薬売り屋さんが来られた時は、ここを拠点に一週間くらい滞在して営業していかれたそうです。

―お二人が結婚されたのはいつ頃ですか。

敬一―私と妻がともに22歳の時です。結婚後は農作業は全て妻に任せ、自分は配送の仕事に専念してきました。

―京子さんは農家のお嫁さんになるつもりで嫁いでこられ、驚いたのではないでしょうか。

京子―私は隣の中田町から嫁いできましたが、実家でも田んぼをやっていましたので農家の仕事に抵抗はありませんでしたし、嫁として旦那や舅や姑の言うことには従うのが当たり前の時代でしたから、自然に受け入れましたね。昼間は農作業をして、夜は主人がオート三輪を修理するのを手伝いました。

敬一―当時の車はよく故障しましたから、翌日の仕事に備えて夜に修理をするのが習慣だったんです。

京子―二人で夜、山形の鉱山に荷物を運んでいったこともありました。朝までに戻ってくるつもりが、実際現地に行ってみると一輪車を借りて運ぶような大変な仕事で、子どもの登校時間に間に合わなかったこともあります。そこの方が気の毒に思ってくださって、土間でラーメンをご馳走してくださったのも今では懐かしい思い出です。


時代の波に乗り事業拡大

―会社組織にされたのはいつ頃ですか。

敬一―昭和36年です。それまでの山田商店から、屋号を山田運送店に改めました。ちょうどその頃から仕事の幅も広がっていきまして、茨城から北海道までスイカやメロンを運ぶ仕事もしました。茨城を出発してカーフェリーで小樽に行くのに、眠くならないよう古川の近くまで妻におにぎりを持ってきてもらい、そこから同乗してもらって小樽に向かいました。
 茨城から北海道まで陸送で果物を運んだのは私が一番初めだったそうで、荷主さんからは「鮮度がよかったので高値で売れた」と後からお礼の電話を頂きました。

京子―今のようなドライブインや自動販売機もない時代でしたから、運転中に眠くならないようにするのが大変で、遠出する時は私も助手としてついていったんですよ。

―時代とともに仕事が拡大していくのを、京子さんも支えてこられたのですね。家のことをしながら仕事も、というのは大変だったのではないでしょうか。

京子―確かに大変でしたが、私たちは農家生まれで一生懸命働くことは当たり前でしたし、内助の功だとか、苦労を掛けたとか、お互いに敢えて言うこともなかったですね。4人の子どもを産んだ後は私も運転免許を取得し、助手としてハンドルを握りました。当時はまだ女性が運転免許を取るのは珍しく、町全体でも2、3番目だったそうです。

―その後は電子製造業などへと事業展開されていったのですね。

敬一―そうです。ただ、事業を広げようと思って計画的に進めていったわけではなく、お客様からの要望に応えていくうちに自然に拡大していったような感じです。運送業、電子製造業、舞台用音響・照明などの事業を始め、それぞれ独立法人化しましたが、それらの会社は現在、息子たちが引き継いでくれています。

―後継者がいることは何よりの安心ですね。

京子―子どもたちから見れば、仕事ばかりでほとんど家にいるのを見たことがないような父親だったと思うのですが、それでも4人全員が反発することもなく素直に育ってくれました。主人は仕事にも子どもたちにも恵まれた人だと思います。跡を継いでくれた長男と嫁にも感謝ですね。

―新事業を始める際、京子さんはどのような思いで見守ってこられたのでしょうか。

京子―レンタカーや観光バスを始める時も、この田舎でそんなことをやっていけるのだろうか、失敗したらどうするんだろう、と内心ドキドキでした。でも結局、うまくいくんですよ。
 主人は外交的で性格的にも商人向きですし、どこに行っても商売のアンテナが立っていて、これはもう持って生まれた才能なんだと思っています。器用で何でもできる分、怖いもの知らずなところもありますが、それも今思うと全て良い方向に働いてきたと思います。


地域とともに歩み続けた半世紀

―ここまでの歩みを振り返ってみて、いかがですか。

敬一―生まれ育った地元を基盤に、地域の人に役立つ事業を目指して展開していくうちに今日まで来たように思います。山田運送がここまで歩んでくることができたのは、地域の皆様のご協力のおかげ、そして家族のおかげですね。

―二人合わせて156歳を迎えられる今日まで、ともに歩んでこられた敬一さんのことを、京子さんはどんな風に感じられていますか。

京子―強引なところもありましたが、今になって振り返ってみると、すばらしい社長、会長でしたね。その後姿を見ていたからこそ、子どもたちも後を引き継いでくれたのだと思います。
 私自身もここに来るまで、ハラハラしたことや大変だと思うこともありました。でも、何より主人を尊敬していましたから口出ししようと思ったことはありませんでした。今となっては全てが良い思い出ですし、本当に主人についてきてよかったと思います。これからも二人で元気に仲良く歩き続けたいですね。



   

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一つの仕事を手塩にかけて
「この写真、そばの芽なんですよ。一週間前にそばの種を実際、私が蒔いてきたんです」。
 日に焼けた顔で、とても誇らしく話して下さったのは(株)だい久製麺の中楯専務さん。
「茶そばの原料となる茶葉の契約栽培や、そばの自家栽培を積極的に行っています。地域の食材を生かした商品作りは、大手にはできない地元メーカーならではの強みがあります。トレーサビリティーは今後ますます重要になりますし、これからも地域の皆様に信頼される企業として食の安全、安心、おいしさにこだわった商品を開発していきたいです」と、笑顔で語ります。
 畑に種を蒔き、そば粉にするまで、たくさんの人の手と時間をかけて、一つの商品を作っていくという経営者の覚悟のような言葉だと思いました。手間ひまかける事こそが、大手企業にはできない強み"と話します。
 グリーンパール納豆本舗の大沼賢治副社長も同じ事を話していました。「手を抜くことはできません。ズルをしたら出来に表れます。品質を保つことは我々の生命線ですから」。
 一つの仕事に手間ひまかけることは、愛情が込もっていなければ、できるものではありません。
編集長

 独自の創意工夫で手塩にかけるからこそ自社ブランド"として生まれてくるのだろうと思います。同業他社のライバルとの価格で競争するのではなく、オリジナルのブランド"として真向から勝負をかけているのです。

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 わんからっとLのこの情報誌も15周年になりました。
 これからもさらに努力と創意工夫を積み重ねて他社にはできない極め細かなフットワークで、地域情報誌をつくっていきます。顔の見える人と人とをつなぎ、お役に立ち、元気の出るコミュニケーションツールとして、情熱をもって邁進していきますので、今後ともよろしくお願い致します。

わんからっとL編集長
小泉知加子